遠山郷盆踊り歌:絵島

歌詞
〆サエノ ヤレー
絵島ゆえにこそ 門に立ち暮らす
 見せてたもれよ 面影を
〆サエノ ヤレー
雁が渡るに 出て見よ絵島
 今日は便りが 来はせぬか
〆サエノ ヤレー
花の絵島が 唐糸ならば
 たぐりよせたやこの島へ
〆サエノ ヤレー
風もないのに 高遠の里の
 花がち散るぞえ うば桜
〆サエノ ヤレー
恋のとが人 絵島の墓の
 里に来て鳴け 秋の虫

信州のかっての秘境遠山郷に残されている数々の盆踊り唄のうち、絵島踊りは、扇子を持って歌い踊る悠長で雅やかな静かな踊り。踊りなれた人に好まれる。唄は江戸時代七代将軍家継の頃、高遠藩にお預けになった奥女中絵島を偲ぶ内容で、はじめ高遠で唄われた歌が、杖突・秋葉街道を往来する馬子達によって上村へ伝わった。今では地元高遠にはこの歌は、何故か残っていないと言う。

江戸時代七代将軍家継の頃、江戸城大奥の大年寄(女中頭)絵島と役者生島の情事が明らかになり、生島は三宅島へ遠流、絵島は、高遠藩内藤家にお預けになり、幽閉された。というのが、芝居や小説に出てくる絵島生島の悲恋の物語である。が、実際の流罪の原因は、徳川幕府の権力争い、並びに大奥改革の犠牲になったものと伝えられる。このとき、死罪二人、流罪十人を含む約千五百人に及ぶ罪人が出たという。
実際絵島が、高遠藩に連れてこられたのは、正徳四年(1717)三月二十六日絵島二十三歳の時だったという。以来六十一歳までの二十七年間、朝夕一汁一菜魚類を断ち、読経写経の精進の日々を送り、一度も家の外の空気を吸うこともなく、寛保元年(1741)四月十日桜の花の下でその波乱に満ちた生涯を閉じた。 高遠町には、絵島囲み屋敷と絵島の墓が残されている。また墓のある蓮花寺の裏山裾に平成四年(1992)四月、絵島没後二百五十周年を記念して「絵島の像」が建立された。

・参考:上村のホームページを通じて送っていただいた遠山郷に伝わる民謡の資料を参考にしています。
    ご厚意に感謝します。
   :長野県商工会婦人部連合会編「信州ふるさとの歌 歌声は山なみはるかー」:(株)銀河書房・H5年刊
   :絵島物語
・制作:99/02/17・更新:99/03/08・01/06/29・01/08/01

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