県歌 信濃の国

信濃の国の歌を使って信州信濃を解説する。 県歌「信濃の国」は,明治32(1899)年長野師範の教師浅井洌(あさい きよし)作詞・依田作曲・後に北村季晴(きたむら すえはる) 編曲で、内容はお国自慢の歌であるが、山に隔てられ、バラバラになりがちな県民の心を一つにする役割もあった。今でも県民が集まる所で歌われている。この歌には,長野県の地理、産物,名所,偉人、など、信濃の国と呼ばれた信州の特徴、概要が歌い込まれていて,今では大分古いが、 信州を紹介するのに相応しい。
歌詞 解説
信濃の国は 十州に
 境連ぬる 国にして
聳ゆる山は いや高く
 流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
 四つの平は 肥沃の地
海こそなけれ 物さわに
 万ず足らわぬ 事ぞなき
第一章は総論である。「強起アレグレット」調子で歌う
長野県は海のない内陸県で、隣国八県十ヶ国: 上野(群馬)武蔵(埼玉)甲斐(山梨)駿河、遠江(静岡)三河(愛知)美濃、飛騨(岐阜)越中(富山)越後(新潟)に囲まれ,峠を通じて往来した
四つの盆地:中信(松本)南信(諏訪・伊那)東信(上田・佐久)北信(長野:善光寺)を中心に人が集中しそれぞれ異なった文化・気質を形成している
四方に聳ゆる 山々は
 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に 活火山
 いずれも国の 鎮めなり
流れ淀まず ゆく水は
 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川
 これまた国の 固めなり
第二章節以下は各論である。此処では信濃の地理を詠う。
今では山なら穂高岳3190m・槍ヶ岳3180m・仙丈岳3033mなどが歌い込まれ る処であろうが,当時の美観で姿美しき山が取り上げられてる。御嶽信仰の御嶽山3063m・乗鞍岳3026mは、乗鞍火山帯に属する岐阜県境の山。駒ヶ岳2956mは、木曽谷と伊那谷を分かつ中央アルプスの主峰.多くある駒ヶ岳と区別するため木曽駒ヶ岳という。浅間山2560mは、群馬県境の活火山。天明三年(1783)七月の大噴火は、地元の甚大な被害と、天明の大飢饉をもたらした。
川の選択は今でも通ずる。何れも長躯をなす急流である。 日本海・太平洋へ分ける奈良井川(+犀川)と木曽川227kmの分水嶺は 中山道の鳥居峠、千曲川220kmの源は甲武信ヶ岳(甲州・武州・信州国 境),犀川80kmと合し越後で信濃川(全長367km)と名を変え日本海に 注ぐ。遠州灘に注ぐ鉄砲水の天竜川213kmは、諏訪湖が源。
木曽の谷には 真木茂り
 諏訪の湖には 魚多し
民のかせぎも 豊かにて
 五穀の実らぬ 里やある
しかのみならず 桑とりて
 蚕飼いの業の 打ちひらけ
細きよすがも 軽からぬ
 国の命を 繋ぐなり
第三章節は信濃の産物の概観である
木曽は豊富な森林資源を持つ。木曽五木(檜・椹・高野槇・明檜・ねず こ)は御用林として厚く保護された。諏訪湖は、ワカサギ漁がある。
蚕産による絹糸は当時の日本の輸出八割を占める国の屋台骨であった。 ナイロンが発明される前は西洋の貴婦人の必需品であった。諏訪地区は 世界に冠たる絹糸の生産地であった。諏訪の片倉会館は当時の隆盛が偲 ばれる。かっては蚕の餌となる桑畑が多かった。
尋ねまほしき 園原や
 旅のやどりの 寝覚めの床
木曾の棧 かけし世も
 心して行け 久米路橋
くる人多き 筑摩の湯
 月の名に立つ 姨捨山
しるき名所と 風雅士が
 詩歌に詠てぞ 伝えたる
第四章節は一転して「弱起モデラート」調子で歌う。信濃の名所旧跡の紹介である。
当時の審美眼による選択。今なら上高地・霧ヶ峰などの観光地が歌い込まれる処であろう。
古の信濃への入り口は今の阿智村東山道神坂峠。園原は神坂峠近辺を謂う。古今の和歌にも詠われる古き場所である。
浦島太郎の寝覚め伝説に由来する「寝覚ノ床」は木曽川の浸食で出来た奇岩とエメラルドグリーンの水とのコントラストの美しい名勝。 「桟橋(かけはし)」は、木曽川と絶壁に阻まれた中仙道の難所に架けた桟橋。共に木曾の上松が舞台。
久米路橋(くめじばし)は、北信・信濃新町と長野市信更との間の犀川に架かる橋。下流にダムが出来て付近の渓谷の景勝が水没した。新町美術館にある掛け軸で昔の縁を偲べる。
筑摩(つかま)の湯は、松本の美ヶ原温泉。日本書紀に登場する。
姨捨山(おばすてやま)の斜面に雛壇をなす田圃に映える「田毎の月」 の風流も採用。ちなみに、信濃の国の三大景観は、この姨捨(篠ノ井線 姨捨駅での景色)・塩尻峠(諏訪湖越しの富士山)・杖突峠(諏訪盆地 ・霧ヶ峰のパノラマ)。
旭将軍 義仲も
 仁科の五郎 信盛も
春台 太宰先生も
 象山 佐久間先生も
皆此の国の 人にして
 文武の誉 たぐいなく
山と聳えて 世に仰ぎ
 川と流れて 名は尽ず
第五章節は調子を戻して歌う,信濃の文武の偉人の紹介である
木曾義仲は巴御前と武勇で知られる。倶利伽藍峠で牛を使って平家を 最初に破った事は著名。墓が木曾の福島にある。 信濃は戦国時代甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の角逐の地で後世に名 を残す武人が乏しい。真田幸村であっても良かった筈だが。仁科五郎信 盛(盛信の誤り)は,武田信玄の五男で、兄武田勝頼の命により高遠城に詰め、天正10(1582)年織田信長 に滅ぼされた最後の仁科(今の大町)城主である。
太宰春台は飯田出身の江戸の経済家者。佐久間象山は松代出身の開国の思 想家。ともに幕末に活躍した。
吾妻はやとし 日本武
 嘆き給いし 碓氷山
穿つ隧道 二十六
 夢にもこゆる 汽車の道
みち一筋に 学びなば
 昔の人にや 劣るべき
古来山河の 秀でたる
 国は偉人の ある習い
碓氷峠1180mは日本武尊(やまと たけるのみこと)の古から、信濃へ入 る峠で、交通の難所であった。日本武尊は、景行天皇の皇子で、東征の 折りこの碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、”東南を望り て三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふ”と日本書紀にある。弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に海に身を捧げた日本武尊の妾。
明治10年から進められた信越本線の難工事は26のトンネルを碓井峠に掘削 し、そこにアブト式のレールを敷いた。上野・長野間に初めて汽車が通じ たのは明治26年。麓の横川駅は387m、軽井沢駅は939m、標高差552m、66.7/1000の急勾配を汽車はあえぎあえぎ登った。 当時の衝撃的出来事であった。是をきっかけに峠の往来が寂れていった。
平成9年(1997)10月1日長野行き北陸新幹線の開通により、この横川・軽井沢間は廃線になった。在りし日の碓氷峠越えの鉄道文化を碓氷峠鉄道文化むら応援団ホームページ [群馬県碓氷郡松井田町横川駅]が伝えている.


・参考:長野県公式ページ信濃の国のページでサウンドも楽しめます
・参考:SBC信越放送の信濃の国:のページでもサウンドも楽しめます
・参考:県歌・信濃の国:解説があります。
・参考:碓氷峠鉄道文化むら碓氷峠観光案内所
・制作:96/9・更新:04/01/17・06/10/18

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