名称 信濃宮神社
主祭神 称信濃宮 宗良親王
由緒 宗良親王は応長元年(1311)のご生誕にてご幼少から仏門に入り天台教学を研修し、称号を妙法院宮尊澄法親王という。二十歳にして天台座主に補せられ、比叡山延暦寺に在りて御父後醍醐天皇の討幕の偉業に参画し、建武の親政を実現したが、程なく足利氏の反により南北朝の動乱となり、法親王は東国南朝方勢力の拡充の重任を帯び還俗して宗良親王と改称し、以来各地に御奔走のうえ、信濃に入られ大河原(現大鹿村大河原)を根拠地とし、香坂高宗らの誠忠に依り東西にご活躍あり、因って世上信濃宮と称す。しかれども南朝方は諸勢力利あらず日々に減衰せり。親王御詠に

いわでおもう谷の心のくるしきは 身を埋もれ木とすぐすなりけり
谷深き雪の埋木まてしばし あわではつべき春ならなくに

と痛恨の極みなり。

元中二年(1385)親王は大河原にて薨御せられた。村人は永く供養を続け尊敬し今日に至っている。 親王は兵馬倥愡の間にあって梨花集の御編纂、新葉和歌集の御撰進をなされた南北朝第一の歌聖である。

神社の造営:時に昭和十五年皇紀二千六百年を迎え、長野県は記念事業として信濃宮神社造営を企画し、鎮座地を大河原上蔵に定めた。時折しも戦時下なり。国民精神高揚のためとして、国民学校以上全学徒のの献金があり、青年は土木勤労奉仕を勤め、社地の造成をしたが、昭和二十年八月終戦後は、民間の奉賛会が造営に当たり、神社の規模を縮小して本殿のみ建立し、同二十三年十一月三日鎮座奉祝祭を挙げた。
祭礼 当初は単立の神社法人組織を以て祭事を行ったが、昭和三十八年九月神社本所属となる。経費は崇敬者の寄付に寄る。
例大祭:四月二十八日・祖霊祭:春分の日
六百年祭:昭和六十年例大祭において親王薨後六百年の祭文を奏上し、記念事業として社歴を掲示する(昭和60年10月 信濃宮神社)
場所 大鹿村大河原上蔵(まっぷ参照)

・制作:02/08/16
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