信濃の城趾:高島城趾・撮影:01/02/18


高島城趾
 高島城、浮城とも言うこの城は、文禄・慶長年間、日根野織部正尚吉が、七年を要し彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の水際に築いた難攻不落の水城である。関ヶ原の役のあとは諏訪氏の居城となり、そのまま明治維新まで続いた。
 この間城は、中山道、甲州街道の道中記に必ず載せられる名勝であった。
 本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務のご用部屋、郡方、賄方などがあり、能舞台、氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。
 明治維新の改革で高島藩は消え、明治8年には天守閣も破却されたが、諏訪市の在城二百六十余年間、一度も百姓一揆などがでるような暴政がなかった名城であった。
 明治9年本丸跡は、高島公園として公開され、護国神社も祀られ、諏訪の人々の心の拠り所として親しまれてきた。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ当時の姿をそのまま残し、近世の城郭を考える良い資料である。今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により破却当時の姿を忠実に再現したものである。
 庭園は天守閣復興と共に諏訪高島城復興同盟会長岩本源諏訪市長自らの設計により、諏訪市が人々の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表し、瀧や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。昭和四十五年五月

●諏訪市文化財「高島城本丸の堀と石垣」:高島城は衣之渡川・中門川など川を掘とし、諏訪湖と阿原(沼沢池)の囲まれ、縄手だけが城下に通じていた。
 天守閣の石垣と本丸正面と東側の石垣は規模が大きいが、南側と西側の石積みは簡単なものであった。衣之渡郭・三の丸・二の丸の石垣も比較的小規模である。
 石垣は野面積みで稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木を組んだ筏の上に石垣を積んでいる。昭和五十四年二月十五日指定。諏訪市教育委員会(城内の案内板から転記)

●訪問記(01.02.18):厳冬期の二月中旬の晴れた日、高島城を訪れた。大雪の降った後の城内や堀には雪が大量に残っていた。今日は富士山が見えますという天守閣へ登ってみた。天守の最上階からは、確かに富士山が遠望できた。諏訪の町や諏訪湖が見渡せる展望があった。市民の憩いの場所になっている本丸跡には、藤棚や、瀧をしつらえた池が配置してあり、護国神社が安置してあった。天守閣に登った後、参拝した。

・リンク:高島城
・制作:99/05/29・更新:01/02/21
Copyright © 2001 Shunji Mori All rights reserved.
もどる