信濃の城趾:飯田長姫城趾


飯田市追手町、飯田台地(天竜川河岸段丘)の南の突端にある。南の松川・北の谷川の深い段丘の先端を利用し。堀で幾つかの郭を作った平山城。
最初は室町時代飯田郷の地頭坂西氏によるものと考えられている。坂西氏は、本丸・二の丸・三の丸・追手門を位置づけ飯田城を整えたが、武田氏の伊那侵攻により陥落した。その後飯田城は武田氏の郡代秋山信友ついで毛利秀頼・下条頼安・菅沼定利と城主が代わり、武田氏滅亡後の豊臣時代には、再び毛利秀頼・京極高知が城主になる頃には、城も城下町も一層手を加えられ整備された。徳川の支配の世には、小笠原氏・脇坂氏・と城主が代わり、寛文十二年(1672)堀氏が城主になり二万石を拝し、堀氏十代を経て明治維新を迎えた。
城郭は、城域の西端に内堀、内堀を隔てて、中央に追手門、北側に不明門、追手門を東に進むと馬場、両側に侍屋敷、馬場の東に三の門、その北に赤門を隔てて桜丸、堀を隔てて南に出丸、出丸の東に水の手門、三の門の東に二の門、その東に二の丸、その東に一の門を隔てて本丸へ続く。本丸の周りは堀が巡らされ、三つの門を持ち、約三二○壺の広さがあった。この本丸跡は長姫神社となっている。飯田城は、 明治初年に取り壊されて売却された。内堀は埋められ、城趾には赤門、石垣の一部が残るのみである。城から移された遺構には、桜丸の門であった二の門が、経蔵寺(飯田市上郷)の山門として残り、当時の面影を伝えている。

飯田は、三州街道・秋葉街道・遠州街道の分岐点で、中馬の基地としても栄えたところ。昭和二十二年大火に逢い、町の大部分を消失した。復旧事業の一つとして街路樹に林檎の木を植えた道を造り、日本の道百撰の一つに選ばれている。
現在、城の二の丸跡には、飯田市美術館が、本丸跡には、長姫神社が建っている。美術館前には、県指定の天然記念物「長姫エドヒガン(安富桜)」(樹齢推定350年)
の名木があり、染井吉野に先んじて春一番に花を付ける。
・照会:飯田市商工観光課:0265-22-4511

・参考:日本歴史大系20「長野県の地名」平凡社刊
・制作:99/04/25・更新:01/04/18
Copyright © 2001 Shunji Mori All rights reserved.
もどる